それは1986年ニューヨークの冬。
NEWYORK & NEWYORKという新しいツアーが誕生。記念すべき第1回目の添乗員としてアサインされ、15名ばかりをつれて、自身初のNYCに向かう。
UAの機内でフロム・ザ・コクピットというチャンネルに合わせると、機長の交信が聞こえる。無線にのっかる、機長の交信の声はなんともいえない。会話ごとにドアが閉まる。そのほんのわずかなブレークがたまらない。子供の頃やりましたよね。電話ごっこ(笑)・・楽しいんです。途中で音が聞こえなくなっなった時、繋がりにくい時、自然現象であったり、自然の摂理があり、まさに交信はロマンポルノのようだ。(笑)
当時はバブルの景気でアパートの価格が上昇し不動産ブーム。SOHOという場所には時代の波に革新的な場所が点点としていた。「ライムライト」という教会を改装したディスコや、地下鉄の駅をクラブにした「トンネル」なども訪れ、ダスティンホフマンがアルバイトしたコーヒーショップや、マドンナが決断したリバーサイドのレストランで食事をとった。考えられないくらい治安の悪い、落書きされたションベンくさい地下鉄にも乗車できるプログラムが用意されていた。
時差で眠れない夜。用心のため、ホテル前のイエローキャブで、一番いかつい運転手を探して、ハーレムのバーに行ってくれと頼んだ。何か興奮したかったのだ。
第一次世界大戦の時に、ドイツはイギリスの周りを潜水艦で囲むという作戦にでて、アメリカはそれが発端となり参戦した。黒人部隊も投入され、帰還した彼らはNYCハーレムに移り住んだ。元々は白人の街だったが、大戦中NYCの労働力が不足し、各地から黒人が流れ込んだそうだ。そこで、一杯だけ飲んだジントニックの味も覚えてないが、あの黒人ばかりの薄気味悪さと、それでも陽気に語りかけてくる笑顔は今も忘れられない。
そのNYCのツアーのガイドは中国人のMRコウさんといった70歳くらいのひとだった。マンハッタンのバーで2人でドライマティーニを飲んで、ベイブルースとジャックデンプシー(はじめの一歩のデンプシーロール)の話を聞かされて、ラブソディインブルーの出足のクラリネットのすごさを聴いたような気分になった。
あれから30年もたっちゃった。
週末、関西大学で旅行業務総合管理者の試験を受験
ちょっと準備不足で、海外だけ点数が足りなかったようだ。
約款76、旅行業78、国内78、海外54
※60点以上で合格
まあ、今年の結果で国内まで合格していれば、来年は海外だけ受ければいいので最低限度の所までは目標は達成した2ヶ月の勉強期間でありました。
もちろん結果は悔しいのだけど、ラグビーJAPANを深夜見ていると、そんなことはどうでもいい、次に繋がっていることが大事なことだと納得されられる。同点ゴールは狙わない、逆転トライを狙わないと革命は起きないんだとも・・・。
人生ホップ、ステップ、バックで半返し縫いで、一歩前進
ヨーロッパ華やかな頃のパリジェンヌは肘の所までカモシカの手袋をしていた。片手の手袋には32個のボタンが有り、64回の想像を絶するような(笑)手続きを踏み、宝石・アクセサリーを一つ一つ外し、帽子の留ピン レースの花のペチコートを探検し山に登る・・・その山の深遠なる旅の世界が、殿方を狂わせた。それが人生の面白さかもしれない(笑)
『禍福は糾える縄の如し』
何事も甘くないよね。久々に試験なるものを経験し思ったことがありまする。判定の白黒を突きつけられること、ラグビーの試合のように結果がはっきりしていた方が、物事は次の着火剤に確実になる。
さあ、それでも立ち止まれない
いよいよ、四国88カ所巡礼を初めてまわってみる、最初は車ですが(汗)
四国八十八ヶ所霊場開創1200年ですしね
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