朝の起き抜けに、ティファールでお湯を沸かす。

いつも通りの手順で、珈琲の豆の挽粉の袋を開き、いつもどうり老犬は袋に犬のようにクンクンと鼻先をつっこみ、その残量なりの匂いを確かめ嗅ぐ。そうやって、いつもどうり定量に15%くらい無駄に豆の挽粉をいれドリップしながら、僕の朝は立ち上がる。

株の取引で「鯛焼きの頭と尻尾はくうな」という格言がある。(意味は高値、底値の手前で潔く売買しろ)

昔、植木等がビッグマネーというドラマでしゃべったセリフだ。(笑)

妙にこの言葉が不思議と説得力があって、自分のひとつの行動基準言語みたいにヒリツイテ離れない。

そうこれは、いろいろ試した挙げ句、珈琲も豆のもつ才能を最大限に引き出すという、くだらん研究の成果だ。あほくさい、だれに話しても事足りないほどの流儀だが、怠け者は小さいことから立ち上がらなければならない、そんな朝があるもんだ。

さて、福田定一という名前をご存じでしょうか。わからないですよね。

司馬遼太郎先生の本名であります。やはり、歴史家、宗教家には相応しい名前がいるな、と思わせますよね。 (笑)

先週カクレキリシタンの話題をメルマガで書きました。もう少し調べたいなと思って、司馬遼太郎先生の街道をゆく「島原・天草の諸道」をよんでいると、歴史の面白さが頭上から脳天唐竹割りの飛んでくるわけ。(笑)

”幕府はキリシタンとわかっても、大量殺害は隠れ行わず、「宗門心得違いの者」とあえて呼んで処理したため、隠れキリシタンは250年存続している”と、先週のメルマガで書きました。

実はそれは、司馬先生が歴史を辿り、「島原・天草の諸道」に書き残した推測。すべてのネタ元はこの本でした。

その大量虐殺がなかった根拠たるのが、隠れキリシタンを調べた庄屋の上田家に起因しているようで、なんとその上田家は大坂夏の陣で散った真田の落ち武者だったという。それを歴史に残った本を手がかりに紐解いて、司馬遼太郎先生の有無をいわせぬ筆圧が僕の胸に迫り来る・・。

司馬先生は上田という姓は、故郷信州の上田を思っての事であろう。そして上田一族にとって天草は世を忍には都合のいい場所であったろうと歴史の記録をたぐり、隠れキリシタンの歴史をささえた、アナザストーリーを見事に紡ぐわけ。

この隠れキリシタンを穏便に、そして彼等の心中をおもんぱかって、知恵で一人の死者も出さなかった真田魂。その気魄がなかったらどうなっていただろう、あまりに怖ろしい・・・。そして歴史はたまらなく面白い。

歴史の綾・・そう感じずにはいられない。

日曜日、街道を行くを読み終えて、ジュンク堂に立ち寄り「司馬遼太郎と宗教」という本が必然的に遭遇する、これまた面白いんだ。

なにがって?たとえば「街道を行く」で全国を廻った司馬先生は、ゆかりのある旅館などには泊まらず、シティホテルに常に泊まったということ(笑)

意外と合理的なんだ・・・

今日はこんなところです。