「時花」って読めますか?
 

 
これは「はやり」と読みます。
 

 
「はやり」はATOKで変換すると、「流行」としか漢字変換されません。(汗;)
 

 
流行は川の流れる様のごとく世間に流布するっていう感じですね、最近の流行は人工的な流れというか、趣にかけてしまい、共同体にいつの間にか呑みこまれて、いわゆる性懲りもなく感染というような感じでしょうか。(笑)どうもインフルエンザみたいなものにしか僕には今想像できなくなってしまったのです。美しいものが、スマホで撮影され、ネットやマスコミの情報から知っていくという現象でしょうか、それはきっと悪いことではないんでしょうけどね。でもなんかうつろな気持ちになる・・・。
 

 
「時花」のことを知ったのは、三島由紀夫さんの本を最近読み出したからです。
 

 
「時花」という漢字は、薄命な命の美しさのように、清らかで、そんな気持ちをかき立てます。たったそれだけのことで、「時花」の漢字を知っただけで、日曜日に降った十月の雨は、ゲリラ豪雨の初夏の雨とはちがい、やわらかで、張りつめたものがなく、とってもやさしい雨に感じられるのが不思議でした。外にも出かけず、本ばかり読んでいるからでしょうか(笑)
 

 
BOOK OFFの100円コーナーで村上春樹さんの「ノルウェイの森」が売ってたので、したりと思い読みました。すると、ある箇所が胸に突き刺さりました
 

 
それは・・・
 

 「現代文学を信用していないというわけじゃないのよ。タダ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い」「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。・・・・あとは紙くずみたいなものさ」 

そして明屋書店をぶらりとしていると、特集コーナーがあって坂口安吾の「堕落論」とか、三島由紀夫の「金閣寺」が書店の一押しコーナーに並んでいるので、迷わず購入したのです。それはまさに僕にとって「時花」という感じで、言葉がひらりと宙を舞い、新しいワールドが開墾され、それは湧水のように、さらさらと時の洗礼が流れるんですよね。
 

 大衆にものが行き渡り、スマホさえあればまあそこそこ楽しめる時代、世界の真ん中にポジションをとるよりも、端っこの方ポジションをいかにとるか、できれば崖っぷちで爪立ちすれば、興奮はMAXになると思うけど、たぶん崖のはしにいると会話も多くて楽しいだろうね・・。今までとは違うものを食べたり、昔からの時の洗礼のあるものを食べたりしないと、ますます息苦しく、むせてくるよな気持ちが、襲ってきます。 

 

さて、週末Netflixで「カノジョは嘘を愛しすぎてる」という邦画をみました。何の気なしに見たんだけど、言葉や、挿入歌にざわめきがあって、よかった。
 

 
それは、クリエーター達の作品としての言葉ひとつひとつが
 

 
「奇跡よ起きてくれ」と、叫びながら紡ぎ出したようで、それが音楽となると感動の増幅装置となり、大衆を貫いてくる。
 

 
言葉って、ヒリヒリする毎日を変えてくれる、今ある武器であり、お守りの気がします。
 

 
漫画が原作らしいのですが、女性コミックなのでかりにくいー(笑)
 

 
でも、そんな女性コミックの世界に、ざわめきは、気配を消して転がっているのかもしれませんね。
 

 
今日は、こんなところです。