「遊べる本屋」ビレッジバンガードに久しぶりに出かけた。店を出て「つまらない」と空に言葉を投げた。

 

あの日初めて行った、へんてこりんな本屋か本屋でないかわからない店で僕はA4サイズの電卓を買った。(笑)ベストチャートに入ってくるような本でなく、店員の知識や情熱や息遣いが感じられるPOPがお気に入りになった。遺跡発掘調査のような胸の弾みがそこにはあった。「あっ、20歳の美人の化粧道具発見」みたいなね。だから、ちょっと人生の折れ線グラフが下を向くと、店内に流れるCDを1枚買って、本を数冊買うのが僕の自己救済だった。

 

されど数年前の店とあまりに風変わりしていた、いや本当はビレバンは何も変ってないのかもしれない、変ってしまったのは俺の方かもしれない。

 

確かにビレッジバンガード はその出店場所を巨大ショッピングモールに移してしまってから、モール病になってしまったのかもしれない、店先を通る多くの女性の顔色をうかがい、どこか大衆に迎合し、POPのペン先まで錆びてしまったようにも見える。連想ゲームのように、例えば旅の本のPOPの近くには、南国のホテルから取り外してきた電話や、スーツケースがおかれ、ムーンサルト「後方二回宙返り一回ひねり」みたいな技の伝授が売り場にあったのだが、人間の慣れというのは、幸せも不幸もひっくるめて「あたりまえ」の世界となり、薄型テレビがもうこれ以上薄型にならないところもまで来てしまったのかもしれない。

 

ビレッジバンガードは年をとってしまった。20代の燃えるような夏はもうこないのだろうか。大学の時28日間沖縄周辺を貧乏旅行した。与論島のサンセットビーチの頭上をプロペラ機が着陸していき、俺達は焼けた砂の上を素足で「あちち」とあるいていた、ビーチでは山下達郎のFOR YOUがモノラルのトランペットスピーカーから流れていた。昼食はビーチの屋台にインスタントラーメンが売られていて100円だった。あの場所で飲んだバドワイザーの脳天から抜けるようなうまさだった。ヒリヒリして、凍てつく体にしみこんだコパトーンの甘い香りに、俺達は自己陶酔できた。

 

 

昔ビレッジバンガードに売っていたモノは日常ではなかなかお目にかかれなかった。ところが世の中にFACEBOOKやTWITTERなどのSNSが登場し、国民総キュレーターの時代が到来し、AMAZONではの購入者のレビューは見事に的を射貫き、情報の洪水の中で、そのチョイスの「洗練」はエッジのキレを失った。

 

この「洗練」という奴は、日本人の得意技だ。日本人は鎖国からはじまり、武道や学問もたしなんだ。日本には日本独自の共同体という仲間意識があって、そこに外国人や、宗教や、違う言葉がないから、仲良くも知性が競争しあい、抑圧の中で技術は共同体の中で「洗練」 され「改善」されながら伸びていいった。そして、その味を高度成長時代から味わってきた僕たちは味わい、どうやら舌が肥えてしまったようだ。

 

モノが売れるのはチラシやPOPではなくなってきている、FACEBOOKやTWITTERやInstagramのようなSNSが圧倒的なスピードと親近感で世の民くれにせまってくる。そしてそれらは、大手のデパートでも今やモデルを雇わず、ショップの店員さんがモデルになってSNSでその着心地を伝えてくる、圧倒的なスピード感、その店員さんと会える面白さ、その店員さんとSNSで友達となりつながることで得られる情報、スマホでとられる動画。ショップの店員さんが数千人のフォロワーを持つことのポテンシャルは恐ろしいほどだ、ここに大差がつくともうその差は開く一方だろう。

 

そして情報の受け手であった、消費者の感想が、時には親友の感想が世の中をさし抜いている。凄い時代だ。まだ、世の中の経営者はそれを甘く見ているので、僕の活躍の場面もそこにあるんだろうけど、今度2年ぶりくらいにそんな総括のイベントでもやってみようかな・・・などと年の暮れに考えている。お遍路88カ所結願祈念でね(笑)

 

古い考え方は捨てないとムーブメントは起きない。僕たちは、自分を上書き保存して生きなければならない時が来ている。変ってないのは、自分だけだと気がつかないとね(笑) おわり

 今日は、こんなところです。