おはようございます。クレストデジタルズ渡部です。

 

 
ラグビーワールドカップ 今世紀最大のジャイアントキリング!南アフリカ戦のダイジェストをもう10回は観たでしょうか(笑)ともかく飽きが来ない・・・

 

 

さて、今日はちょっとくどいかもしれません。(笑)
土曜日の朝、YAHOO!ニュース

 

 

球界最年長の山本昌 今季限りでの引退発表「とってもすっきりしています」
「ファンのみなさんのご声援がなければ一歩たりとも進めなかった32年間でした。感謝、という言葉しか、思いつきません。こんな幸せな野球人生は、生まれ変わっても二度と送れないでしょう」という中日ドラゴンズ山本昌選手引退の記事で、ちょっと研究してみたくなりネットサーフィンへ流れる。
いろいろ読んでいるうちに、「出会いのドラマ」の熱に浮かされていく自分がいた。

 

 

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山本昌(やまもと・まさ)略歴
プロ野球選手(投手)。左投左打。身長186cm。中日ドラゴンズに所属。1965年8月11日生まれ。神奈川県茅ヶ崎市出身。日大藤沢高校卒業。1983年 ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。タイトル:最多勝:3回 (1993年、1994年、1997年)。最優秀防御率:1回 (1993年)。最多奪三振:1回 (1997年)。表彰:沢村賞:1回(1994年)。最優秀投手:2回 (1994年、1997年)
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プロ野球最年長の中日・山本昌投手(50)が野球を始めたのは、小学3年。日大藤沢高校時代に甲子園出場経験はなく 県大会準々決勝敗退。まつたくの無名の選手をスカウトしたのは高木時夫(中日ドラゴンズ時代は木俣捕手の控え)。ドラフト5位、背番号は34。当時のエース、小松辰雄から引き継いだ。しかし入団4年目まで鳴かず飛ばず。中日は業務提携していたロサンゼルス・ドジャース傘下のマイナーリーグ(1A)へ。いわゆるメジャーの4軍あたりに肩たたきのように左遷された。

 

 

出会いのドラマ:「まだ終わってない」アイク生原(昭宏)さん」
「アイク、彼はダメだよ。サイドスローにフォームを変えるか、トラックの運転手になったほうがいいよ…」とメジャーのコーチは山本選手評を語る。

 

 

「そうそ…。ヒドイよねぇ。けど昌はね、何か一つ武器を覚えれば大きくはばたける可能性を感じたんだよ」
ドジャース傘下のマイナーチームの用具係からたたき上げでドジャースの職員となり、日本のプロ球団から送られてくる野球留学生の面倒を見ていたアイク生原 さん

 

 

「基本を大切にしろ」、と毎日言われ、試合のあとは徹夜で一球一球を徹夜で二人で振り返ったこともあった。上から投げろ、前で離せ、初球はストライク低めに投げろ。繰り返してやることで、変化が生まれていく。

 

 
生原に連れられてロサンゼルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラのピッチング練習を見に行った。シンカーをおしえてもらったが、「レベルが違って、わからない」、そんなときにメキシコ人外野が外野でやっていた、工場のキャッチボールに参加。面白半分で投げていたそのシンカーを教えてもらって投げると、なんと!!!、「めちゃ使える」よく曲がるので早速夕方の試合で試すと、花が咲くように自分が開花した。以後それを使うと1Aのオールスターゲームまで呼ばれるようになり、メジャーから打診まであった。
そのビデオをみた嗅覚の鋭い闘将星野監督。草木に隠れられてしまって見つけることが出来なくなった獲物の残臭を検知し、山本選手を日本へ呼び戻す。戦力外の男が、突如秘密兵器に抜擢された。その後シーズン途中の加入ながら、5勝負けなしという成績を収める。

 

 
山本昌選手のストレートは130キロ前半だが、ボールの回転数が1秒間に52回転。(松坂大輔が41回転、藤川球児が45回転 )
猛烈なバックスピンのかかったストレートは上向きに変化を加え、他の投手とは違った軌道を描く。しかも187cmという体格は、普通の選手より30cm位は前で投げていることになる。

 

 
YOU TUBEで山本昌投手のスーパースローをみたのですが、投球フォームから八の字を大きく描きながら、途中で一度ためて可能な限りリリースポイントを遅らせて投げ込んでいるように見える。打者からすれば150キロを投げそうなフォームで、130キロのストレートが来るべきタイミングに来ないで、遅れてやってくるわけだ。当時の中日には150キロを超える剛速球を持つ投手、郭源治、今中慎二、野口茂樹、川上憲伸がいたのも大きかったでしょうね。
クビ寸前、敗戦処理の選手に、野球への愛情と情熱の楔を打ち込み、再生させて行った。アイク生原さんは、野球に対する接し方には特に厳しかった。

 

 
二人でブルペンで何千球も投げ込み、内蔵と内蔵をこすれあわすように、この傑出した魔球を完成させた。
地獄であった師匠は、なんと慈悲にあふれていたのでしょう。師匠は弟子を正しくしつけ、マインドを教え、技術を教え、再生させる。時にドジャースのいるときは身元保証人であり、一人前になってもその役は変わらない。
アイク生原さんは出会いから、数年後になくなったけれども、山本選手はいつも写真に手をあわせ、登板の日はその部屋の明かりをつけていたそうです。

 

 
ある試合で無死満塁となり、もうだめだとあきらめそうになったときに
アイクさんは「まだ終わってない」と昌に声をかけた。
その言葉を何度唱えただろう。

 

 
愛だけが奇跡を起こす。
 

 
そんな物語をネットで拾いながら、人生の出会いのドラマに熱くなった週末でし
た。