大河ドラマ 西郷(せご)どんを見た日曜日。

正直つまらなくて、僕の心の桜島はもう少しで噴火しそうだった。(笑)

ならぬものは、ならぬ。女性がつくると・・、こうなるのか。

 

僕が初回を演出すると、どうなるだろう。

西郷(せご)どんのファンタジー演出とは違うことをやってみたい。

 

時は、鎌倉時代、初代島津のルーツを探す・・。

 

御家人島津忠久は、先住民がどんな種族ともわからない未開の地九州薩摩に、薩摩芋しか育たない不毛の地に、源頼朝から守護職を命じられ赴任した。

 

実は忠久の母親と、源頼朝は同時期に同じ乳母の乳で育ったらしい。そう、かくして、同じ伝説の乳首で育った兄弟なのだ。僕も参加したい(;゚ロ゚)これは歴史学的に見ても稀なのだが、ここは話しを膨らますのはやめる。(笑)多分無理矢理、この歴史は美談のように歴史にねじ込まれたのだろう。

 

二年ほど前に母親を連れて鹿児島へ行った。城山ホテルの桜島が見える露天風呂。そこには桜島が今日何回噴火したのかを掲示していた。桜島は年に1,000回は噴火するらしい。

 

不思議なのは、その桜島にたくさんの人が今でも住んでいることだ。

 

桜島の麓にある小学校にはいまも脈々と続く、恒例行事がある。桜島の対岸まで4キロを全員で泳ぎ切るという伝統だ。

 

西郷どんで郷中教育を説明していたがわかりにくいこと限りない。(笑)これこそが、薩摩の教育の象徴だろう。

 

桜島の対岸まで4キロを全員で泳ぎ切る。ずっと続いてるんでしょうね。泳ぎが得意なものは、友達を支え、泳ぎが苦手なものは、迷惑にならないように必死に練習する。誰一人、落伍者を出さず泳ぎ切る。薩摩の血の結束がそこにある。

 

学校なんてない、朝6時に先輩のところに行き四書五経を学び、10時から相撲をとり、午前中再び先輩は後輩に勉強を教える、午後は山、川、海で遊び、夕方武芸の稽古をし、武士としての心得を学ぶ。

 

桜島がもし噴火すれば、全員が錦江湾を泳いで逃げる。このポテンシャル、団結力を持っている薩摩に日本のどの藩が勝てるというのだ。

 

そして、この「負けるな、ウソを言うな、弱い者をいじめるな」という郷中教育の教えをつくったのは島津義弘。

 

「関ヶ原の戦い」ではいろいろあって西軍だった。敗戦濃厚、まわりは東軍だらけ、どうやって血路をひらくか。義弘は鬼将「福島正則」に正面から切り込み、士気を束ねて徳川家康に突っ込んでいき、にらみをきかし、血路を開き退散す。

 

追いかける、本多忠勝などの徳川四天王に対し、「捨て奸(がまり)」という戦法をとる。殿(しんがり)部隊は敵を食い止め、全滅すると、新たな部隊を再編し、再び全滅するまで義弘を逃がすという作戦。さらに、退路には小部隊をつくり、追撃する敵の大将だけを狙うという鉄砲隊を配置。追撃隊の大将・井伊直政には致命傷を負わせて逃げ切った。すべては練習済み、折り込み済みの知略なのだ。

 

島津義弘は関ヶ原の闘い後、重傷を負わせた井伊直政に和平交渉を頼み、それには福島正則も尽力し義弘を助けた。名将というのは敵味方問わず信頼され、リスペクトされるんでしょうね。

 

最後は、薩摩にはお金があったのかと言う話題です人生はお金です、「金がなくては戦はできぬ」であります。

 

歴史を歪めるのは、結局は運がある人物だと思うんです。

薩摩にもいます・・・あり得ないほど変な人が。

 

島津重豪(しまづ しげひで)

・薩摩藩の財政、500万両にも及ぶ膨大な借金。※藩の総収入15万両

・老中広郷は行政改革、農政改革。商人脅迫、借金を無利子で250年の分割払いへ

・広郷は密貿易、砂糖の専売制など改革。汚れ役だが彼なしでは薩摩はない

・最終的には100万両を超える非常用積立金が藩庫に収められた。幕末に役立つ

 

重豪は・・

32年の長きにわたって藩主の座にあって藩政を独占

贅沢三昧をして藩の財政を破綻させる。桜島も噴火で散々

愚君の評価を下す人が多い

 

しかし型破りの殿様の「無茶」こそが・・・

西洋文化に造詣が深く、蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向

藩校・造士館や演武館を設立し、教育の普及

明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究

医療技術の養成、医学院を設立

曾孫の斉彬の才能を高く評価、斉彬とともにシーボルトと会見

当時の西洋の情況を聞く。彼はローマ字を書き、オランダ語を話す

「蘭癖大名」と呼ばれる

 

幼少時にその教えを受けた斉彬は重豪の教養を基盤として集成館事業を興す

※反射炉の建設や軍艦の製造へ

 

島津重豪の藩政下

・当時薩摩藩の人口のおよそ4分の1が武士。これは全国の武士の1割にあたる

・城下町に収容しきれないという名目で、麓と呼ばれるミニ城下町となる

 ※知覧に行きましたが、武家屋敷は圧巻

・「薩摩の方言や服装は野蛮だ。上方の風俗を見習うべし」上方から遊女を積極

 的に薩摩へ呼ぶ

・徳川11代将軍家斉(いえなり)に自分の娘を嫁がせる

・多くの子供や孫を、有力大名の養子や妻の座へ送り込んでいく

→このことが外様大名島津に権力を与えた

 

明治時代の「廃藩置県」を機に返済はストップ。事実上「200年以上ふみ倒し」

島津重豪という、異分子があってこその薩摩藩の歴史ですね。(^O^)

 

「薩摩に暗君なし」この後の系譜はこうです

島津斉興 → 島津斉彬 → 島津久光

 

時間がなくなりました。配信日の朝、書いているもので。

 

西郷どん、次回は跳ねて欲しいですね。

 

これらのデーターはネットや、書籍から得たモノです。

裏付けはまったくありません。

そこのところ、よろしくお願いします。

今日はこんなところです。

 

2018年今年もよろしくお願いします。