月曜日の丑の刻の朝2時から、錦織圭のアルゼンチン・オープン決勝をみる、みなければ自分の何かがおさまらないような気分だった。世界のトップランカーが出てないATPツアーで、世界でもてはやされてないマイナーなこのゲームで、何をしようと試みるのか?なぞと、洒落てみながらパソコンのLIVEを準決、決勝と獣も寝静まる時間に、珈琲を頼りに孤独で画面をにらんでいた。

結句、錦織選手はアクセルを踏むことなく、世間からみたら俗にいう覇気のないゲームだった。相手に打ちやすいボールを返していたようなゲーム。ドロップショットもネットプレーも少ない、いつもと違う彼のプレーをみながら、どこかに枷をはめているような気分は、謎めいていた。突っ込めないのか、突っ込まないのか?なにかの間合いを計る、実験データーでもとっていたのだろうか。負けた。

地球の裏のアルゼンチンからの、LIVE中継は、派手さがないのがイイ。観客の浮かれた笑顔を必要に追いかけることもない、きちんと選手を追いかけていて、集中できる。いい女のカットインもない、地味系のセニョリーターをとらえる。アルゼンチンにたいして、そんなちっぽけな所作から、容易く好きな気持ちが芽生えるのが不思議だ。

 

YOU TUBEでLIVE放送をやってたのだけど、書き込みの95%は日本人で、アルゼンチンの方の書き込みは5%あったかどうかだろう。

 

日本人というのは、外の世界ではどんだけ不自由なんでしょうね、その反動というか、ネットという内なる世界でひとたび自由になれば、恐ろしいほど、手のつけられないほど、跳ねてしまうようだ。ネットの世界では、節操のないほど自分を吐き出している。

 

人間の脳力が一定だとすれば、内なる世界や、妄想といった世界で、そのエナジーを発揮しないと、生活が成り立たないのかも知れない。だから、漫画や、アニメ、エロビデオまで、この分野にかけては世界一といえる。ノイズが聞こえない世界、いいかえれば純粋枠では、若者は実力を発揮するようで、まるでネットの中に神がいて、宗教的ではないかとさえ思ってしまう。(^^;)ますます、加速していくことはまちがいない。

 

コメントを読みながら、観察眼に関しては鋭いモノも存在している。一見無防備に見えて、内実はキレキレなコメントも多い。人間関係に不器用でも、社会規範に照らし合わせたら今ひとつでも、感性は一人歩きして育っているのだ。「本音と建て前」みたいな、仕分けが上手なのよね。

 

チョウチョの完全変態のように、芋虫であったものが、さなぎになり。さなぎの間細胞をリセットして、まったく姿形をかえてチョウチョとなり、別人28号となり飛び立つ事もあるだろう。そうさせる、ドラマチックウィルスとの出会いは自分の中には存在しない、外からやってくる。

人生は出会いだけが、人間を変えていくんでしょうね。

しんしんと夜の夜気も少しやさしくなり、春への息吹を漂わせている。梅の花のような仄かな香りとでもいうのだろうか

夜の気怠い眠気を通り越し、なんで俺は徹夜していだろうと思う。昼間にあがないきれない眠気がやっているのはわかっているくせに・・。

クレーコートの闘い、錦織圭を追いかけるのはこのシーズンが好きだ。

 今日は、こんなところです。