おはようございます。クレスト渡部です。

 

 
 滾るような、松山の夏。いかがお過ごしでしょうか?

 

 
 中学の夏のあの頃、蜃気楼のあがるグラウンドで、ピンポンダッシュをしながらバスケットボールを追いかけていた。大学生の頃は、大阪南港から2泊3日で南へ向かう。あの頃の方が100%を人生を謳歌しながら生きていたのは間違いない。

 

 

 読書ばっかりしているのですが(笑)五木寛之先生の「好運の条件」を読みながら、親鸞は90歳、法然は80歳、蓮如は85歳、こうしてみると念仏系の人のほうが長く生きる気がすると、面白いことを書いているのを見ながら、なるほどと、なにかビクンと感じたお盆でした。同じことを唱えなければ(笑)

 

 
 お盆の実家で、日曜日の夜の親父の楽しみ「BS日本のうた」を一緒に視聴。赤のキャップのデザインがイカス、食卓塩を、小ぶりのスイカにふりかけながら、昔ながらの手法で味の変化を楽しむ。介護の必要になった親父の足は難病で真っ黒になっている。血が通わないので、足の小指が内側に折れ曲がりくすり指の上に完全にのっかかって折れ曲がり、あまりにもむごたらしく、悲しい気持ちになる。

 

 
 「わーらにまみれてよ~」と「達者でナ」が始まると、親父の胸にその曲が食い込んで行くのがわかる。介護に大変なおふくろは、「馬鹿な出会いが 利口に化けて よせばいいのに一目惚れ なにわ節だよ人生は」とくちずさむ・・。(笑)

 

 
 最近よく実家に行く。親父の放送局人生がどんな人生であったかを確認するという作業にいそしむ。

 

 

 1970年 瀬戸内シージャック事件(ウィキペディア参照)
 https://goo.gl/ST6I09

 瀬戸内シージャック事件(せとうちシージャックじけん)は、1970年5月12日から5月13日にかけて広島県と愛媛県間の瀬戸内海で発生した旅客船乗っ取り事件。
乗っ取られた船の名称から「ぷりんす号シージャック事件」とも呼ばれる。警察官が犯人を狙撃することによって人質を救出し、解決した事件として知られる。

 犯人はライフル銃など3丁と弾丸80発、散弾250発を強奪し、ぷりんす号は瀬戸内海の向う側にある松山港に向かった。広島県警に在籍する警察官3,715人中1,256人が事件に動員。地元の中国新聞と中国放送がチャーターしたセスナ機を銃撃し、燃料タンクを貫通し燃料が漏れ出し、同機をあやうく墜落させかけた。一連の追跡劇で動員された船舶は、広島県警警備艇5隻、チャーター船1隻、海上保安庁の15隻に上ったほか、海上自衛隊も県警の要請により掃海艇と支援艇を派遣し協力し、4号魚雷艇には警察官が乗船して追尾した。ぷりんす号は愛媛県の松山観光港に午後
9時40分に入港した

 

 
 親父は、報道合戦が繰り広げられる現場の船の中で、犯人の乗船する船を照明で照らすという役目で最前線の取材チームにいた。弾丸が照明に向けて飛んできて、「照らすな!」という怒号が飛び、まさに命がけの仕事だったらしい。

 

 
 1966年の松山沖の全日空機の墜落事故も、最初に現場に駆けつけた報道チーム数名の中にいた。

 

 
 これらの痛ましい事件を、僕が多感な時期だったこともあるのだろう、親父の口からほとんど語られたことはない。だが、実家にちょいちょい行く度に、今、ヒアリングをしている。

 

 
 僕は、大学生の頃は、親父に頼んで放送局でアルバイトをした。ベスト10の中継や、ミュージックナイター、高校野球、デパート前でのラジオ中継、歌のない音楽会、愛媛各所でローカル番組、コンサートの中継など。結婚式などのピンスポットは楽しかった。1冊の本にできるくらいのドラマはあったのではないだろうか。

 

 
 親父は新しいモノ、コトが大好きだった。我が家は、カシオの電卓が出たり、テープレコーダーが登場したりすると。いつもいの一番に親父が買ってきた。実家の増築した座敷には、スポットライトが取り付けられ、そうめんを冷やすためのボウルを改造し、内側にアルミホイルを貼り、ストロボマシンを親父が作ってくれたリもした。

 

 
 放送局マンとして血沸き肉踊る日々の連続もあったが。今苦しんでいる。難病の足は、歩行を困難にし、ゆるやかな老後を与えてはくれない。生きることは悲鳴の連続のようだ。

 

 
 最近、幻覚が見えたり、意識が5分位なくなることが多い。その度に、オフクロは神経をすり減らしている。救急車を呼ぶでもなく回復を待つ時間はつらい。先日もディサービスの途中で、意識が薄れ。小生が車で迎えに行き、県病院に連れて行った。お盆の前だったが、いつもの先生がたまたま電話に出てくれて、診察の日でなかったので、オフクロの話をじっくり話をきいてくれた。幻覚とか、意識がなくなるというのは副作用かもしれないとのことで、皮膚科、内科、泌尿器科から出ている薬を点検してくれて、ある薬をやめた。「何とかうまく行ってほしいね」とオフクロと溜息をついた。

 

 
 「もう手を尽くすことはない。」といわれても、「何かいい方法はないのか?」と家族は考えるだろう。しかし、医療の現場では医師とじっくり話せる時間はない家族としては「なるようになるしかない」と果たして考えていいのだろうか?

 

 
 「何かいい方法はないのか?」最後までそう考えるのはなぜだろう?たくさんの家族は「もう手を尽くすことはない。」といわれても、丸山ワクチンの注射をしたり、いろいろと世話をやく。

 

 
 自分事となり、介護を手伝いながら、命の大切さを身にしみて感じる。何かをつきつけられたように考えさせられるコトが、なんと多いことか。そして、この営みの中に、夫婦や家族の愛を再確認していることもわかった。

 

 
 さあ、お盆明けですね。

 

  親鸞は9歳の時に出家、出家の際に「明日ありと思う心の あだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と一首の歌を記されました。

 

 
「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日といわず、どうか今日、得度していただけないでしょうか」という意味です。

 

 
 私も「今こうして生きていることがありがたい」と念仏を唱え(笑)

 

 
 お世辞の手裏剣を飛ばしながら、人を3倍喜ばし、頑張ります。