初夏の早朝のどんよりした土曜の空は、午後への蒸し暑さの予兆をはらんでいた。この時期は1年で一番紫外線がきつい。そんな情報は、ボクの小さな一握りの人生経験のレーダーは無意識にキャッチできてしまい、そして、そんな小賢しい浅知恵の小さな悪意をボクは憎む。

 

金曜日の夕方、スタバにはあふれかえるほどの女子高校生がいた。それを横目でみて、表情がよめないブルドックの顔を造作し、耳の頂点をとがらせて、恋バナを盗み聴いていた。まぁ、かいつまんで言えば、「夏休み前に好きな彼に告白するか、しないか」という事なのだが、大好きな彼を遠目に探しているだけで幸せな毎日も、それが切なくて、苦しくて、告白するほどの勇気もないくせに、燃える夏の気配が彼女を後押ししているようで、彼が自転車置き場で長いメールを打っている姿に、彼女がいるのではないかと思ってしまうというのだ。この世の中には「言えなかった好きですという言葉」が、どれほどあふれているだろう。さもあれど、いつだって恋は素敵だ。

 

そして、大学の同窓会の理事会に出席。最後の議事連絡で理事を退任される方がいて、挨拶をされた。「身体がステージ末期のガンで、もう治療をしないことを決め、モルヒネだけの緩和ケアをしていくので退任したい」と、毅然と語られた。後任の方も推挙され、本人も了承済みだということだ。お顔だけは拝見したことがあるが、挨拶程度しかしたことがない方だった。

 

宴会になると、その方が隣の席になった。なんと声をかけて良いのか、とうてい酒をぐいぐい飲めるような気分にもなれないが・・・。「痛みは、いかがですか?」と問うと、「痛みはないし、発見されたときには自覚症状もなかった」とこたえられた、短いようで長くも感じられる病状をききながら、時が5分くらいは流れ、言葉が途絶え、その方はまわりの気配を感じられたのか、席をたたれ時をたたんだ。気がつくと、料理には箸をつけてなかった。最初の器の海老しんじょうがおいしかったので、せめてそれだけでも、食べてほしかったななどと思ってはみたが、せんもない。止まることのない料理の一人前を、余っているのでどうぞとすすめられ、なぜかボクはちいさな自己嫌悪に陥った。心の中で、俺なら宴会には出ないな・・などと考えていたからかも知れない。

 

そんなことがあって、その夜、超久しぶりに夜のひとりクラブ活動に出た。夜のひとり恋漫談は化石化している、歌にでもしないと、切なさが足りないようだ(笑)才能のない俺は、なんでも理由をほしがる。努力で才能なんて買えないと思っている、とてつもない無駄な時間と金の浪費だけが、才能を産むと勝手に信じている。そして、また理由をつける俺は、才能がない(笑)

 

翌朝土曜日、空がぐるぐる回る中、放埒な魂はまだ叫び声を上げていた。煩悩の修行のお遍路逆打ち9回目(全16回)。

 

般若心経のお経声が今までで一番、心の中にひびいている。毎日苛立っていた雑念が消えていくようだ。9回目ともなると、ゆっくりなら唱えられる。

 

お遍路の前日に浴びるほど酒を飲んだのは初めてだった、若いときだったらあたりまえだったことも、今は浅知恵で前日は早く寝て、体力を担保して望んでいた。まあ、へたれの根性なしだ。このお遍路旅でいつも感じることは、人生はご縁でできていると言うことだ。昨夜の引退された愛媛大学のOBの方は、お大師様の化身だったのかもしれない。何かを開かせてくれた。

 

人生の両端は、危険ゾーンでできている、物欲、金欲、性欲、食欲、ねたみ、うらみ、理不尽、傲慢などが暗闇をつくり、泥沼のように待っているようだ。そこに足を突っ込むこともたまには悪くない、そこには本当の俺がいる。生きているという、確かさがある。

 

お遍路で訪れた、9番札所法輪寺には88カ所の中で唯一の涅槃釈迦如来がある、公開されていないので心眼でみるしかない、頭北面西で、北枕でお顔を西向きに、右脇を下に寝ている涅槃の姿を表しているらしい。

 

北枕は縁起が悪いと言われるが、じつはお釈迦様が入滅したときにこの姿だったので、恐れ多いからですよと先達産が教えてくださった。といわれても・・・ボクはもう何十年も北枕で寝ている(;゚ロ゚)

 

そして、その夜、布団をすこし角度を北からずらし、意味のないことをやって眠った。浅知恵を憎むが、浅知恵を楽しむことは好きなようだ。

 

今日はこんなところです。

写真は四国八十八箇所を巡った伝説の人物とされる衛門三郎の終焉の地伝説が残る、杖杉庵。

最初に四国八十八箇所を巡った伝説の人物とされる衛門三郎の終焉の地伝説が残る場所に建つ寺院である。
伝説によれば、平安時代前期の天長年間(824年 – 833年)に、伊予国の人であった衛門三郎は四国巡錫中の弘法大師に行った無礼な行いを詫びるため弘法大師を追って旅に出たという。21回目に逆回りを行っている途中、四国八十八箇所12番札所焼山寺近くのこの地で力尽き病に倒れた。そこに弘法大師が現れ、衛門三郎は非礼を詫びた。大師が衛門三郎に来世の望みを訊くと、生まれ変われるなら河野家に生まれたいと望んで息を引き取った。そこで大師は「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせた。天長8年(831年)10月20日のこととされる。大師は衛門三郎をこの地に葬り、墓標として衛門三郎が遍路に使用した杉の杖を立てた。これがやがて根を張り杉の大木となったという。
この地に庵が設けられ、伝説にちなんで杖杉庵と名付けられた。なお、伝説の大杉は江戸時代中期の享保年間(1716年 – 1735年)に焼失したとされる。この頃に京都仁和寺より衛門三郎に「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られた。