おはようございます、クレストデジタルズ渡部です。

 

「松山や 秋より高き 天守閣」子規

 
松山ボランティアガイド養成講座を松山大学で学んでます。週末は現場研修で、萬翠荘、坂の上の雲ミュージアム、松山城とベテランのボランティアガイドのご案内のもと、巡りました。それにしてもアジア圏の旅行者の姿が目立ちます。

 
松山城の天守閣から見渡すてっぺんの景色は十五万石の景色で別格、インスパイヤされます。伊予人にとっては自画自賛になりますが132mという山が見上げられる高さとしては絶妙のアングルが、のんびりした空気を醸し出してます。姫路城は平ったい所に立っているでしょ、ちがうんですよ。(笑)

 
松山城の天守閣はもともと五層だったのですが三代目の藩主松平定行は天守を三層に改築しそれを惜しむ声が多いのですが、僕は城の持つ威圧感みたいなモノが消え三層にした殿は芸術家だと畏敬の念があります。まるで女性の乳房のように17歳の香りがします、五層だったら乳頭ばかりが目立ってピンピンしてダメダメ・・。

 
(笑)愛を確かめあえません。

 
賤ヶ岳七本槍の初代城主加藤嘉明は、働きモノだったんでしょうね。坂の上の雲で殿が民と一緒ににぎりめしを食べながら城造をした下りがあったように思いますが、聖武天皇が行基菩薩に命じて東大寺をつくって鎮護国家を目指したように、松山の殿は松山の殿で後世の誇りを残したんでしょうね。2つの山をくっつけ、山に広場をつくった訳と発想の源、あの石垣の石はどこから持ってきたんだ・・・次の宿題が残りました。

 
坂の上の雲ミュージアムは何度来ても、必ず見たいのが司馬遼太郎先生の坂の上の雲の書き出しの原稿です。「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」四国伊予松山でのびやかに暮しながらも、青年が「国家」というモノを真剣に考えていた。「のぼっていく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂を登っていくだろう。」松山城を誰もが思い出します。プラトンの「国家」という本を買っても、最初の50ページで挫折してしまっている
僕はダメ男です。

 
いつもこういう場所を訪ね思うことは、松山の女性は「つつましやか」といわれるが、男性を支える姿が映し出されることです。ひたすら夫、子供のために尽くす・・。しかし、その先にともに夢や国家まで見ているような強さがある。松山をつくったのは、女性ではないかと・・・。それを坂の上の雲で司馬遼太郎先生は、子規の妹正岡律を通じて、教えてくれた気がします。

 
突然ですが、まっことすみません、今日はここでペンを置きます。

 
藪用で、倉敷まで行きますので・・・。夜は達郎さんのコンサートを観てきます。

週末は、またお遍路に行ってきます。